「男の子だってお姫様になれる!」哲学序説
2018年6月13日 エッセイ最近ツイッターにばかりいてDNは放置していたんだけども、そのツイッターで気になる話題があったので、生存報告代わりにつらつらと書いてみようかと
日本の二次元文化において異性装というのはよく描かれていて、浮世絵しかり、僕の愛した漫画でいうと「日出処の天子」「放浪息子」「もやしもん」「げんしけん」「海月姫」「ボクらは魔法少年」あたりが今回の男の子が女の子の格好をするという文脈に通じるものがあるだろうか。
漫画というカテゴリ以外でいうとその数はそれこそ数えきれないだろう。FGOのアストルフォ、ギルティギアのブリジット、シュタインズ・ゲートの漆原るか、バカテスの秀吉などなど。
また、僕自身は作品未読ではあるけれどもストップ!!ひばりくん!などもエポックメイキングとして有名である。
ただ今回はそういった作品群の紹介ではなく、あくまでそういった作品やキャラに触れてきたなかで蓄積してきた自分の思考をここにまとめてみようというものである。
異性装のキャラは二次元文化におけるイデアとして、ビザール、エロス、ファッションという三要素で構成されてきた。ビザールとしてはギャグとしてであったり神秘性もしくは不気味さであったり、エロスは非日常の色情からLGBTの一要素としてまで、ファッションは似合うからしたいからなにより作者のさせたいからである。
そしてファッションとしての異性装が既に二次元文化において存在しているならば今回の男の子だってお姫様になれるは特別取り上げることではないのではないかという疑念が出てくるのだが、ここで重要なのは、日曜朝の女児向けアニメ(実際の視聴層はさておき)で、見た目が似合ってるからではなくただひたすらにしたいからするという宣言をしたということである。
特にプリキュアという少女アニメという前提ゆえに件の少年アンリは凄い美少年ではあるのだが、似合う似合わないや周囲の否定や嘲笑といったものに拘泥するのではなく、あくまで自己実現を肯定したことに意義がある。
ファッションとしての異性装を主題においた漫画といえば僕の愛する「放浪息子」だが、これはコミックビームという青年誌連載であり、少年少女の青春群像劇として素晴らしい作品ではあるもののやはり大人向けと言うべきだろう。特に主人公は可愛い、似合う、というテーゼありきである。その親友のマコは可愛くない、似合わないというコンプレックスを抱えながらも異性装と向き合ってゆくのだが、こちらは女の子になりたい、男性が好きというトランスジェンダーであり、したいからするというよりは必要に迫られてと言い換えてもいいだろう。
そういう観点からすると作品終盤で出てきた海老名が一番しっくりくるだろう。
既婚者で子供もいる異性愛者であり似合わないことを自覚しつつも異性装をして街に出かけるのである。とはいえ周囲には伝えておらず、子供が長じるまでに止めなければと葛藤するのがメインではあるが。
また、異性装をしないもしくは知らない人からはビザール、エロス、ファッションとして捉えられやすいが、逆に理解のあるもしくは理解しようとしている人からはLGBTとして見られてしまう。しかしながら異性装すなわちトランスジェンダーという思い込みもまた危ういものであり、今回の男の子だってお姫様になれる!は自分のしたい恰好をするとは数珠つなぎの一つの文脈ではなく、劇中でも違う場面であるということを失念してはいけない。
ここまで異性装というテーマで語ってきたが、少年アンリのいう「僕は自分のしたい恰好をする。自分で自分の心に制約をかける。それこそ時間、人生の無駄」のしたい恰好をするというのは異性装に限った話ではなく和服であろうがピエロであろうが関係ないのである。
次回へ続く
日本の二次元文化において異性装というのはよく描かれていて、浮世絵しかり、僕の愛した漫画でいうと「日出処の天子」「放浪息子」「もやしもん」「げんしけん」「海月姫」「ボクらは魔法少年」あたりが今回の男の子が女の子の格好をするという文脈に通じるものがあるだろうか。
漫画というカテゴリ以外でいうとその数はそれこそ数えきれないだろう。FGOのアストルフォ、ギルティギアのブリジット、シュタインズ・ゲートの漆原るか、バカテスの秀吉などなど。
また、僕自身は作品未読ではあるけれどもストップ!!ひばりくん!などもエポックメイキングとして有名である。
ただ今回はそういった作品群の紹介ではなく、あくまでそういった作品やキャラに触れてきたなかで蓄積してきた自分の思考をここにまとめてみようというものである。
異性装のキャラは二次元文化におけるイデアとして、ビザール、エロス、ファッションという三要素で構成されてきた。ビザールとしてはギャグとしてであったり神秘性もしくは不気味さであったり、エロスは非日常の色情からLGBTの一要素としてまで、ファッションは似合うからしたいからなにより作者のさせたいからである。
そしてファッションとしての異性装が既に二次元文化において存在しているならば今回の男の子だってお姫様になれるは特別取り上げることではないのではないかという疑念が出てくるのだが、ここで重要なのは、日曜朝の女児向けアニメ(実際の視聴層はさておき)で、見た目が似合ってるからではなくただひたすらにしたいからするという宣言をしたということである。
特にプリキュアという少女アニメという前提ゆえに件の少年アンリは凄い美少年ではあるのだが、似合う似合わないや周囲の否定や嘲笑といったものに拘泥するのではなく、あくまで自己実現を肯定したことに意義がある。
ファッションとしての異性装を主題においた漫画といえば僕の愛する「放浪息子」だが、これはコミックビームという青年誌連載であり、少年少女の青春群像劇として素晴らしい作品ではあるもののやはり大人向けと言うべきだろう。特に主人公は可愛い、似合う、というテーゼありきである。その親友のマコは可愛くない、似合わないというコンプレックスを抱えながらも異性装と向き合ってゆくのだが、こちらは女の子になりたい、男性が好きというトランスジェンダーであり、したいからするというよりは必要に迫られてと言い換えてもいいだろう。
そういう観点からすると作品終盤で出てきた海老名が一番しっくりくるだろう。
既婚者で子供もいる異性愛者であり似合わないことを自覚しつつも異性装をして街に出かけるのである。とはいえ周囲には伝えておらず、子供が長じるまでに止めなければと葛藤するのがメインではあるが。
また、異性装をしないもしくは知らない人からはビザール、エロス、ファッションとして捉えられやすいが、逆に理解のあるもしくは理解しようとしている人からはLGBTとして見られてしまう。しかしながら異性装すなわちトランスジェンダーという思い込みもまた危ういものであり、今回の男の子だってお姫様になれる!は自分のしたい恰好をするとは数珠つなぎの一つの文脈ではなく、劇中でも違う場面であるということを失念してはいけない。
ここまで異性装というテーマで語ってきたが、少年アンリのいう「僕は自分のしたい恰好をする。自分で自分の心に制約をかける。それこそ時間、人生の無駄」のしたい恰好をするというのは異性装に限った話ではなく和服であろうがピエロであろうが関係ないのである。
次回へ続く
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